私は、分かり合え、共感できる仲間が欲しいと思っているのに、どこかで心を許せないのは、人と仲良くなるのが怖いという思い込みがあると感じていた。今日は、そこを内観しようと思う。
分かり合え、共感できる仲間が欲しいのに、なぜ、そうでない現実になっているのか。
友達、仲間・・・そのキーワードで何度も思い出す場面がある。そこの一場面を内観してみようと思う。
小学校のとき、無言電話が何回もかかってきた。嫌な気分が続いていた。誰だか分からないまま数日が過ぎた。
ある日、仲の良い友達から電話がかかってきた。話が途切れると、「カチカチカチ」と時計の音が…。
ん⁉️・・・この音は‼️
そうです。無言電話の向こうで鳴ってた時計の音。
カチカチカチ・・・その音と全く同じ。
仲良しだと思っていた友達が、私に無言電話をかけてたのです。何で?不信感と、怒りが込み上げる。
私は、思わず「無言電話〇〇ちゃんやろ!だって時計の音同じやもん」と言うと、動揺し「違うよ〜」。
その日から無言電話は無くなった。
やっぱり、〇〇ちゃんに間違いない。
仲良いと思ってたのに、私のことを嫌ってたの???
その日から、その友達のことが信じられなくなった。そして、嫌われている自分のことが虚しく、寂しい人間だと思うようになった。悲しい。怒りが沸々と湧き、少しずつ他の友達や仲間の事も、どうせ私のこと嫌いなんでしょ。と思うようになった。
本当は寂しい、悲しいのに、態度は裏腹で、私は強いんだから!と自分に言い聞かせ、周りの仲間に対しては怒り(否定)をぶつけるような話し方をするようになった。皆んなが離れていった。
ほんとは辛かったし、悲しかった。泣きたかった。謝って欲しかった。私の気持ちを分かってほしかった。仲良く遊びたかった。皆んな大好きだった。
この体験が、時々フラッシュバックしていたのに、ずっと無視していた。ごめんね〜私!
だから、人と仲良くなることが怖い、仲良くなっても心許すことができない、否定的に相手を見る。が仲間との間でパターンとして繰り返していたんだ。
強がっていた私に寄り添う。
「えーん( ; ; )」
もう、強がるのはやめよう。分かってもらえないことを怒りで表現することもやめよう。だって本当は怒りたいのではなく、仲良くなりたいのだから。手放そう・・・。
「私は弱っちい、すぐ怒る、小さい弱い人間です。」 それでもいい。
もう、仲間ができても強がらなくていい。仲良くなることを恐れなくてもいい。そのままの自分でいても、大丈夫。
当時、私を否定する人が現れていたのは、そんな自分が嫌いで自己否定が強かったからだと今では分かる。
どうせ仲間だと思ってないんでしょ。と、外側に目を向けて攻撃的だった自分に気づいていなかった。でもそれは、自分を守ろうとしていたから。愛されていないと思うことが怖かっただけ。
そして・・・そもそも、私が周りの友達を仲間だと受け入れていなかったことに気づいたとき、ハッとした。
もしかしたら、寂しかったのは友達の方だったのかもしれない。「ごめんなさい」「許してください」という気持ちが湧いてきて、私自身が私を受け入れていないことが全てを創っていたのだと分かり、それを映してくれたのが友達だったんだと思うと、感謝の気持ちでいっぱいになった。「ありがとう」自分を受け入れるということを教えてくれていたんだね。